出来ないと言われた夢

 こんばんは。僕です。夢を語る。夢を追う。それは少し勇気のいる事かもしれない。誰も行かない道を進む。人と違うこと…時代が変わり、それが良しという価値観も少しずつだが浸透してきたように思う。しかしながら、新しい事にチャレンジしたり、やってみたい事、成し遂げたい事を語ると、必ずと言っていいほど、無理だ、出来ないと言ってくる輩がいる。それも厄介なのはさも自分が世の中の事を全て知っているかの様に、偉そうなところだ。一体、世の中の何を知っているのだろうか?と僕は言いたくなるが、チャレンジする勇気のない奴ほど、外野からあれやこれやと言い、人の前進を止めてくる。でも、それを気にする必要は全くない。人の頑張りが面白くない奴ほど、自分の人生を生きていない。

 絵画製作を始めた頃、あれやこれやと言ってくる奴がいた。ルアー製作に対してもだ。一体何がしたいのか、うざったかったのだが、今思うとあれは、足を引っ張る行為だったのかと思う。ギターの弾き語りがしたいと言った時も、地元の人から無理だと思うと言われた。自分達がやらない事、知らない事にチャレンジする人を見ると、きっと恐怖心が湧くのだとおもう。人はわからないものに対して、大概その様な気持ちを抱く。まして自分がやった事ない事なら尚の事だ。でも負けずにどれも少しずつではあるが達成してきた。絵画はイタリアとスペインに展示、その他ヨーロッパ方面から沢山のイベント招待があった。ルアー製作にしても、塗装面はまだ未熟ではあるが、市販品に負けない泳ぎが出せる様になってきた。ギターの弾き語りにしても沢山の人がいい声だね!ギター上手だね!と褒めてくれる。

 先日、僕はとある言葉に出会った。足を引っ張る人間は3流で、引っ張られる人間が1流だと。正直、無理だと言われるとへこたれるし、いちゃもんをつけられると、なんだよ??と反応したくなる。というかする。失敗をしようものなら、笑ってきたり、ほら上手く行かなかった!と言われたりもする。でもそんな時はこの言葉を思い出したい。そして夢を追いかけたり、何かを頑張る人は人の失敗を決して笑ったりしない。むしろ、どんどん失敗しろくらいのスタンスだ。僕は中学生の時、少しでもミスをすると怒鳴り散らされ、なんでなんでと責め立てられるような担任に当たってしまった。人は失敗を怒られるとどうなるか…。次第に挑戦をしなくなるのだ。でも挑戦をすれば必ず失敗する。失敗する事をダメとする教育は、挑戦するなと言っているのとなんら変わりがない。そして、そのまま大人になったら、何かあると組織が会社が社会が世の中が…と他責な思考停止人間の完成である。それで果たして良いのだろうか?幸せに生きる為の学びであり、それが出来るのが学校だ。でもそこで窮屈な価値観を植え付けられ、挑戦出来ない人間が量産されるとしたら、本末転倒である。良い担任に出会えば、また別なのかもしれないが…。

 夢を語る。夢を追う。それは失敗に寛容になる事だ。それが僕が挑戦を続けてきて得た最大の学びかもしれない。効率化が進む社会において、幸せに生きるのは、自他共に寛容になれる人だと思う。千里の道も一歩から。これからも僕は沢山失敗して生きて行きたいと思う。