逆境に生きた青春 大海原への航海 

船についた。グナマ号…、僕が初めて手にした船だ。船舶の免許を取り、行動範囲が一気に広がった。それまでは、港にしか居場所がなかった。出かけるとしても、手漕ぎの船。行動範囲はたかが知れていた。やっとやっと、魚釣りのポイントに着いても、移動でヘロヘロになり、釣りをする体力が残っていない事もしばしば。それでも、初めて釣る魚の感触に感動したのを覚えている。文明の力、内燃機関はこれほどに良いものだとは思わなかった。排気量こそ大きくないものの、アクセルを回すだけで、走ってくれる。釣り場への移動が圧倒的に楽になり、魚釣りにかけるエネルギーを温存出来る様になった。遠く、未開のポイントを開拓し、魚がいる場所、景色が綺麗な場所を沢山知った。やや目立つフォルムだったから、ずけずけ悪口を言う姑息な輩も居たが、知ったこっちゃないと思った。酷い港を忘れたくて、ひたすらに船を走らせ、魚を追いかけた。釣りに集中する時間が、僕を守っていたのだと思う。沢山の魚を釣った。でも港に帰ると、現実を突きつけられた気がして、苦しくてたまらなかった。ここが安定したら、どれだけ良いだろう。何度、そう思ったかわからない。酷い整備士を殺してやりたいと、思った事もあった。そう、苦楽を共にしたのが、このグナマ号なのだ。整備士さんは、船をいたわる様に、丁寧に修理をしてくれた。壊れた船は、治るまで、時間がかかった。エンジンを回しても、何度となく黒煙をあげ、ガラガラと鈍い音がした。オイルを換える余裕すら無く、走らせ続けたのだから、無理はない。「ごめんな」船につぶやいた。大事な船をメンテナンス出来なかった、自分を呪った。整備士さんは、僕に修理を1から丁寧に教えてくれた。こんな人は、今まで僕の近くに居なかった。船と僕をこんなに大事にしてくれるのが、不思議に思うくらいだった。修理よりも、愛を沢山教わった気がした。「これでもう、黒煙は出ませんね」少しずつ治した船は、歯車が噛み合い、ゆっくり回り出す様に、また動きだしたのだった。「ありがとうございます」「実は私も…」「?、何かあったのですか」「はい」人は見かけによらないと思った。明るく見えた整備士さんも、過去に沢山の辛い経験をされていた。明るく、強く見える人ほど、大きな闇を抱えているのかも知れない。そうも、思った。「いやぁ、船を直したら、疲れました。サカポワ島には、良い喫茶店があるんです。休憩を兼ねて、行きませんか?」「是非是非!」昔から、僕はコーヒーが好きだ。最初はカッコつけて飲んでいたが、そのうち美味しいと思うようになり、エスプレッソマシーンで、休日の朝のコーヒーを淹れて飲む時間が、至福のひと時だった。喫茶店と聞いて、久しぶりに胸が踊る。喫茶店は島のはずれ、海の入り江の端にひっそりと建っていた。マルタカフェ。2階建の建物で「こんにちは!」入り口のドアを開けると、カランカランと鈴の瑞々しい音色が響いた。「いらっしゃいませ。」入って右奥に、カウンター席が3つ。手前にテーブル席が1つ。2階にもテーブル席がある作りで、店内にかかるピアノのBGMが心地いい。「マスター、グアテマラを2つ!」「はい、かしこまりました」やや強面のご主人が、いそいそとコーヒーの準備を始める。「私のおすすめは、ここのグアテマラというコーヒーよ。他にも、ケニアとか、タンザニアとか、色んな銘柄があるの」「そうなんですね。」確かに壁際には、沢山の瓶が並べられていて、その中にコーヒー豆と思しき豆が入っている。マスターは、そこから豆を取り、コーヒーミルにいれて、ハンドルを回した。ゴリゴリゴリ!!乾いた音と共に、コーヒーのいい香りが店の中を満たした。挽きたてのコーヒーが楽しめるなんて、なんて贅沢なんだろう。「お待たせしました。グアテマラです」カップになみなみと注がれたコーヒーを慎重に、マスターはテーブルに2つ並べた。「いただきます」飲んで思った。甘い!ブラックを飲んで甘いと思った事は一度もなかった。とても不思議な感覚に陥った。豆、本来の甘みとは、この事を言うのだなと思った。「マスター、美味しいです!」マスターは何も言わず、にやりと笑う。「美味しいでしょ!?」「うん、とても」整備士さんは、美味しそうに飲む僕をみて、嬉しそう。「そういえば、まだお互い、名前を知りませんね」「そうでしたね、私は、なぎさと言います」「僕は、ますおです」「なぎさと、ます、海と川ですね。ふふふっ」なぎささんの、笑う顔が可愛くて、少しドキッとする。「いやぁ美味しかったです」「それは何よりです」カランカラン。「ありがとうございました」コーヒーのいい香りを漂わせながら、店を後にする。島の喫茶店なんて、なんだかお洒落だな。マルタカフェ。また来よう。久々の楽しい時間が嬉しかった。続く。